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1コメント1件きゃりーぱみゅぱみゅ(写真=KOBA)
“インフルエンサー”という言葉が当たり前に使われるようになって10数年。インフルエンサーとは、インターネットを通じてファンとコミュニケーションを築きあげ、影響力を大きく持つ人物を指す言葉だ。【画像】鮮やかな衣装に身を包むきゃりーぱみゅぱみゅ きゃりーぱみゅぱみゅが、2011年8月にミニアルバム『もしもし原宿』デビューして10周年を迎えた。その人気に火がついたきっかけは人気曲「PONPONPON」の大ヒットであることは間違いないが、きっかけは複数ある。音楽活動はもちろん、『KERA』や『Zipper』などファッション雑誌のモデルとしての活動、インターネットでのブログでの写真やテキストによるユニークな存在感のアピール、そしてSNSでのファンとの交流だ。 その後、様々な音楽アーティスト、読者モデル、YouTuber、TikTokerなど、多くの表現者に影響を与えたことは想像に難くない。そんな、インフルエンサーの先駆け的存在であるきゃりーぱみゅぱみゅに、当時の状況を振り返っていただきつつ、インフルエンサーが続出する即今のネット時代への印象を聞いてみた。(ふくりゅう)■服装に注目されることにいい意味でゾクゾクする感覚を覚えたーーアーティストデビュー前、読者モデル時代を振り返るとどんな思い出がありますか?きゃりーぱみゅぱみゅ(以下、きゃりー):洋服が大好きで、お気に入りの格好をして原宿に行ったらスナップを撮ってもらえて、それが紙面に載るのが嬉しかったんです。最初は、雑誌『KERA』に小さく載って、本屋に母と一緒に買いに行って大感動したのが忘れられないですね。その後も、ちょくちょく読者モデルという形で『KERA』や『Zipper』に載るようになって。ーーデビュー2年前、2009年ぐらい?きゃりー:そうですね。でも、読者モデルって本当にセルフプロデュースを求められるので。もちろん今みたいにメイクさんもスタイリストさんもいないので全部自分でやっていました。自分でメイクをするから、自分のカワイイ見せ方とかがわかってくるんですけど、それがとにかく大事で。ーーそして好きだからこそ、服もヘアもメイク代も大変ですよね。きゃりー:そうなんですよ。それで、当時ファミレスでアルバイトしていたんですよ。時給700円ぐらいだったかな。週に何回かやって。でも、読者モデルの仕事でも当時1回5千円ぐらいいただけて。高校生の私からすると嬉しくって、モデルの仕事もアルバイト感覚でしたね。ーーそれが好きを仕事にできたはじまり。きゃりー:当時『CHOKi CHOKi GiRLS』という雑誌があったんですよ。表紙になると原宿駅に表紙がばっと貼られることがあって。2回ぐらいやらせていただいたかな。でも、芸能人ではなかったから、嬉しくて母と父と一緒に原宿駅まで見にいっていました。当時ネットもそこまで広がっていないから誹謗中傷も全然なくって。でも、ファンの方の声は届くんですよ。幸せですよね。ーー平和な時代ですね。ちなみに、読モ時代も、きゃりーさんのファッションセンスって普通とは違うところがあったじゃないですか? きゃりー:元々はシャイな性格なんですよ。人前で作文を発表するのも休んでしまいたいぐらい、人から注目を浴びるのが嫌で。でも、自分の好きなファッションが派手で、それが注目されることにいい意味でゾクゾクする感覚を覚えたんです。当時、高校生の頃って、Tommy february6さんがいて。甘い感じのパンクさが人気で、私は目玉にリボンが付いているものや歯のブレスレットとかにハマっていて(苦笑)。周りからは「それってカワイイのか?」って思われるものを、「これがカワイイんです!」って言い続けていたんです。あの頃は、いま思い返しても不思議なんですけど、ファッションや服装についてははっきりとモノが言えたんです。ーー好きこそ物の上手なれ、ですね。きゃりー:でも、普段はシャイで、恥ずかしがり屋でした。自分の中の二面性が高校生の頃に出てきましたね。ーーファッションは別格だったんですね。きゃりー:西東京ののどかなところで育ったので、洋服を買うとしてもイオンの2階しかなかったし、中3ぐらいまではファッションをわかっていなかったんですよ。友達と放課後に原宿に行ってみたら「なんて楽しい場所なんだ!」って衝撃でした。それから服をどうしようか考えるようになって、古着は安いものも高いものもピンキリあるので、安いアイテムを探したり、母が昔着ていたワンピースとかを着ていました。ちょっとレトロな80年代のものとかもいいなって思っていましたね。ーーリアル『下妻物語』の世界みたいだ。きゃりー:私はいわゆる一般的な家庭で育ったので。一人っ子なんですけど、母は躾が厳しかったので、私のファッションが派手になっていくことを心配していたんですよ。当時は「頭がおかしくなったんじゃないか」ぐらい思っていたと思います(苦笑)。近所に私みたいな服装の人はいないし。でも、父は密かに応援してくれていて。母がいないときに金髪のウィッグをネット通販で買ってくれて、届いて母に怒られる、みたいな(苦笑)。ーー(笑)。きゃりー:でも、こうやって取材で話したりしていると「しっかりしてますね」とか「言葉遣いが綺麗ですね」とかよく言っていただけるんです。それは母のおかげなんですよ。なので、どちらかに偏っていたらグレていたんじゃないですかね(笑)。遊び心ある父とマジメな母に育てられたという。ーーそうかもしれませんね。あと、きゃりーさんは自分の意見をテキストとして発信するブロガーという側面もあったと思います。言葉の発明とかテキストのセンスにユニークさがありましたよね。最初にバズった投稿って覚えていますか?きゃりー:ええ~、なんだったんだろう……。あ、やっぱり変顔じゃないですかね? 最初、私のイメージって変顔が強かったんですよ。変顔が好きでブログにアップしたら「あの顔面白いね!」とか「記事よかったよ!」とかたくさんの人に言われて。ーー変顔をネットに載せる恥じらいや怖さというか、ネットで顔を公開するリスクは感じなかったんですね。きゃりー:無かったんですよ。でも、アメブロ(Amebaブログ)ランキングでいろんな芸能人の方とかを抜いてしまったときに、「あ、これはすごいことになっちゃったぞ」って怖さはありました。あと、ブログのテキストの書き方もこだわりました。段落をあえて開けたり、そういえば「PONPONPON」の歌詞に出てくる〈うぇいうぇい〉は、中田(ヤスタカ)さんが私のブログのタイトル『きゃりーぱみゅぱみゅのウェイウェイブログ』から取っているんですよ。あと、きゃりーぱみゅぱみゅっていう名前も、高校生の頃に自分で考えたので、深い意味とかなかったんです。でも、高校生の頃に、私の中でなにか起きたんでしょうね(笑)。■デビュー前は本当に平凡な女子高生だったーー(笑)。きゃりーさんは、オリジネーターだから。そういう意味では、今ネットで情報発信することと、当時、ブログで情報発信していたことで、インフルエンサーとして変化を感じることはありますか?きゃりー:10年前、私もその走りだったのかもしれないんですけど、一般の子がスターになれるチャンスが広がってきましたよね。それが今は、もっと確率が高くなっていて。しかも、自分が好きなことをYouTubeやTikTokにアップし続けていたら、そこにファンが付いて、時には著名な方がフックアップしてくれたり。本当、普通の人がスターになれる時代なんだろうなって。ーーユーザー側も、そんな親近感を持てるような人を求めているような気がします。きゃりーさんのブログも、きっとそうだったんだと思うんですよ。きゃりー:デビュー前は本当に平凡な女子高生だったので。ただ、人一倍楽しいことが好きだったんですよ。当時って、今のiPhoneのように高機能カメラとかもないので、ガラケーの連写機能を試行錯誤しながら、空中浮遊写真や変顔を撮っていましたからね。ーー今に通じることが、あの時代にいろいろ生み出されてます。きゃりー:あと、女子校だったので男子の目を気にせずにいられたんですよ。その調子でブログを書いていたらいつの間にか、芸能人を差し置いてアメブロのランキングで1位になったんです。ーーすごいですね。きゃりー:ある時、木村カエラさんが「きゃりーちゃんのブログが面白い」って書いてくれたんですよ。そんな、信じられないようなすごいことがいっぱい起きて。不思議な感覚だったけど、すごく嬉しかったですね。でも、私としては趣味でやっていたことなんで。発信したくてというより、ブログというデータフォルダに書き留めていたイメージなんです。ーーそれ自体が遊びだった、と。きゃりー:ブログは遊びでしかなかったです。将来、そこから芸能人になろうとか一切考えていなくて。ただただ面白い写真を撮ったから、みんなに見てほしかったという思いだけでした。ーーそして、高校卒業前、音楽活動を始める前の頃って将来のことを考えるタイミングだったと思うんですけど進路のことで悩んだり考えたりしました?きゃりー:気がついたら友達は進路がスムーズに決まっていて。幼稚園の先生やトリマーになるとか、「いつの間に願書出してたんだよ」みたいな(笑)。中高と、成績は全然よくなかったので、「えっ、私どうしよう?」って思いましたよね。ーートークも上手だし、頭の回転が速そうですけどね。きゃりー:ただ、ファッションは好きだったのでファッションの専門学校に願書は出していたんですよ。そうしたら、アソビシステムの社長に「歌をやってみて、もし1年でダメだったら学校に行けば?」と提案されて。そう、あれから10年って感じなんです。ーーへえ、人生のターニングポイントだ。きゃりー:その後、ファッションのことは、スタイリストの飯嶋久美子さんと一緒に考えることができたり、結果ファッションにも関われてよかったですね。■あの場で「YUKIさんです!」って言ってたらどうなっていたんだろうーーそして、音楽面では中田ヤスタカさんとの出会いが大きかったと。きゃりー:友人の読者モデルのフィッティングに付いていったら、場所がアソビシステムだったんです。で、そこに社長がいて、「きゃりー、どんな音楽が好きなの?」って聞かれて「CAPSULE(2013年まではcapsule)です!」って答えたら、すごくびっくりしていて。たしかに、その当時のCAPSULEって、もう少し上の世代が聴いていた音楽だったんですよ。で、そんなCAPSULEを教えてくれたのは父で。父がtvkとかでやっていた音楽番組でかかるMVを録画して、編集して家で流していたんですよ。ーー動画プレイリストみたいな。きゃりー:そこで米米CLUBやモダンチョキチョキズも知って、小さな頃から聴いていました。その流れでCAPSULEやPerfumeも父から教えてもらったんです。 そうしたら社長に「CAPSULEの中田ヤスタカさんと一緒にイベントをやっていて、高校生DJを探しているから現場においでよ」って、『TAKENOKO!!!』という昼間にやるイベントでご一緒してデビューすることになったんです。ーー運命的ですね。きゃりー:先日、YUKIさんのライブを観に行ったんですけど、社長に「きゃりー、どんな音楽が好きなの?」って聞かれたときに「YUKIさん!」と言うか、「CAPSULE!」と言うか実は迷ったんですよ。なんとなく「CAPSULEって知ってます(知らないでしょ)?」ぐらいの流れで言ったんですよ。なので、ライブを観ていて、あの場で「YUKIさんです!」って言ってたらどうなっていたんだろう、違った人生になってたのかなって。ーーああ、たしかに。きゃりー:YUKIさんがそのライブで「JOY」を歌ったんですよ。私、中田さんと出会う前に、どれぐらい歌えるかなっていうテストでYUKIさんの「JOY」を歌ったんです。なのですごく感動しちゃって、涙ながらにライブを観ていました。ーーなんかいろいろ結びついてるんですね。10年分の感動だ。きゃりー:10年前を思い出すというか、感動しちゃいました。ーーそして、2011年にYouTubeやiTunesの世界的な普及や盛り上がりと同タイミングで、きゃりーぱみゅぱみゅという世界的に知られるポップアイコンが誕生したという。きゃりー:いまでも覚えているのが、たしかフィンランドとベルギーのiTunesエレクトロランキングで「PONPONPON」が1位になったんですよ。でも「なんで!? 行ったことないんですけど」って思って(苦笑)。そこから、すごい勢いで世界に広がったんです。ーーそして、Twitterで海外の著名人、それこそインフルエンサーの方にフックアップされてましたよね?きゃりー:Linkin Parkのチェスター・ベニントンさんが急に「LIKE IT!」みたいな感じでYouTubeをポストしてくれたり、大好きなケイティ・ペリーがツイートしてくれたり。ーー衝撃的でしたね。きゃりー:最近、10周年なので振り返ることが多いんですけど、インタビューだと他人事のように話してしまうんです。でも、本当にいろんなアーティストやクリエイター、スタッフの方々に支えられていて。当時、私はまったくよくわかっていなかったので。初期の頃に起こったミラクルは、本当にラッキーガールだったなと思います。ーーそこから自分の居場所を自分で見つけて広げて、自分の作品を確立してきた10年となりました。やっぱり感慨深いですよね。そして新作アルバム『キャンディーレーサー』を発売し、全国ツアーも2022年の年明けからはじまるという。今後の活躍も楽しみにしております。きゃりー:ありがとうございます!
ふくりゅう
最終更新:リアルサウンド