浅井氏が、はじめに就職したのは1986年。ちょうど男女雇用機会均等法が施行された年に、住友銀行に入社した。
もともと理数系が得意で、「数学は100点じゃないと嫌だった」という。高校の先生から大学進学を勧められるも、「早く社会人になって活躍したい」と進路を決めたそうだが、「住友銀行の制服が一番可愛かったの」と微笑む姿はとてもチャーミングだ。
1994年の流動性預金金利自由化に伴うシステム開発では、PM的な立場で社外エンジニアチームをたばねるなど奮闘したという。その勢いで総合職を目指したが、学歴を理由にさらに数年の経験が求められ、「私の人生、そんなに待っている時間はないわ」と24歳で退職した。
浅井氏:走っているような人生でした。その後、カナダのバンクーバーに3ヶ月語学留学し、保険会社に転職もしましたが、20代後半で「好きなことを仕事にしたい」と思い、そこから「自分の好きなことって何だろう」と、探したんです。たまたま誘っていただいた、ボジョレーヌーボーのテイスティング会で、ソムリエという当時はあまり知られていなかった職業に巡り合って、これだと思いました。
「ソムリエになりたい」という情熱が原動力となり、金融業界から飲食業界へ、はじめての異業種転職を果たした。ここでは4つの職場を渡り歩く、ジョブホッパーとして経験を積んだ。余談だが、筆者は2000年代前半、リクルートで「好きを仕事にする本」の制作に携わっていた。当時、好きを仕事にという価値観がまだ世の中的に目新しく、眩しく輝いて見えたことをよく覚えているのだが、浅井氏の決断と行動はこれよりもずっと早かったのだなと思った。
浅井氏はまず、世界的なソムリエの田崎真也氏がいるホテル西洋銀座に入社した。「ここなら一流のワインや世界中のお酒が揃っている」と考えたという。さらにフランス料理の勉強もしたい、と次は帝国ホテルへ。一流の環境に身を置き、夜まで仕事、朝まで勉強。2000年には、オーストラリアワインコンクールで準優勝、帝国ホテル開業110周年カクテルコンテストで優勝を果たした。
浅井氏:まず先に、何をやりたいか、自分はどうなりたいのかを考えて、そのためにどういう勉強や資格が必要か、どこで働くのが一番よいかを考えるようにしていました。
さらにオークラフードサービスの六香庵では、和食とワインのマリアージュを追求し、店長もつとめた。探究心と楽しさから走り続け、ソムリエとしての実力と経営マネジメント力、両方を磨き上げたが、身体への負担は大きく外食産業からは身を引く決断をしたという。