首里金城町側からの第32軍司令部壕の空撮写真。第5坑口は中央の雑木林の右端付近にある=2021年11月、那覇市(小型無人機で下地広也撮影)
[継ぐ 32軍壕](1)第1部 壕が語る沖縄戦 復元に向けて工事が進む首里城。そこから徒歩で南側に下って約10分。所狭しと住宅が立ち並ぶ斜面の一角に、うっそうとした雑木林がある。【写真】切断された手足「学生さーん、それ煮てくれよ」 動員された17歳少女、想像していた戦争と「違う」 草をかき分けて中に入ると、小さな扉が姿を現した。周囲は薄暗く、ひんやりとした空気が流れる。ここが、沖縄戦を指揮した旧日本軍「第32軍司令部壕」の出入り口。第5坑口だ。 戦後77年。五つあった出入り口のうち四つは既に埋まり、現在確認できるのは第5坑口のみ。壕内は状態が分からない所も多いが、第5坑口やそこから内部に続く第5坑道は調査済みで、他の場所に比べ、保存公開の可能性は高い。 ここで一つの疑問が浮かんだ。雑木林の周りは住宅などが密集する。なぜ、ここだけ残ったのか。あえて残したのだろうか。 西側では大規模なマンションの建設が進む。北側も別の不動産業者が土地を取得し、開発地に挟まれている状況だ。雑木林は民有地。売却されてしまわないか。地権者に聞いてみた。◇ ◇ 雑木林を所有するのは、幼い頃から近くに住む長嶺将永さん(84)だ。この土地を代々祖先から受け継いでおり、戦前から今まで一貫して所有している。 旧日本軍は長嶺さんの私有地を、どうして使うことになったのか気になった。戦時のどさくさに紛れ、地主の同意が曖昧なまま占有した可能性もある。■壕を知る糸口は少なく 土地が軍に使われた経緯をつかむ手掛かりは、乏しかった。沖縄戦時、長嶺さんは7歳。首里に住んでいたが、壕の記憶はない。父はブーゲンビル島で戦死し、自宅に壕の資料は何も残されていなかったという。 終戦直後に壕や第5坑口がどんな状態だったのかも分からず。長嶺さんは糸満に逃げて助かった後、首里へ戻ったが、壕を話題にする住民は誰もいなかった。 長嶺さんが壕の存在に気づいたのは20歳を過ぎてから。知り合いから自分が雑木林の所有者だと知らされ、林に入って入り口を見つけた。その後、調査した那覇市から司令部壕だと教えられ、驚いたという。 近くに60年以上住む古老の男性(85)にも聞いた。「戦後15年くらいたってから壕の上の道路が割れ、落盤が相次いだ。おかしいなとは思ったが、まさか下に壕があるなんて思わないよ」■大きすぎた沖縄戦の被害 研究に時間 壕の保存公開を求める会の瀬名波榮喜会長(93)から「司令部壕の場所は機密情報で、近隣住民も知らなかった」と聞き、合点した。「甚大な被害があった沖縄戦の研究は時間がかかった。第32軍司令部壕の把握にも、相当時間を要したはずだ」と。謎が多いのは、沖縄戦の被害が大きすぎた故なのだ。◇ ◇ 1960年ごろになると、観光開発などのため、壕の調査が繰り返された。58年から68年まで5回も実施したが、壕内の落盤などから、保存公開は前進しなかった。 ■首里城は復元 壕は忘れ去られた存在に 72年の日本復帰後も、上の首里城は復元事業が進んだが、第32軍司令部壕は目立った動きはなかった。「だんだんと忘れられた存在」(長嶺さん)になっていったが、長嶺さんは保存公開の可能性があるとみて、土地を持ち続けてきたという。 壕は沖縄戦を指揮した日本軍の中枢が拠点を置いた重要な戦跡だ。歴史の検証や平和教育にも生かせるはず。77年も放置され続けてきたのはどこか納得できない。■激動の戦後 保存公開に手が回らず 第32軍司令部壕に詳しい県平和祈念資料館友の会の仲村真事務局長(66)に尋ねると、こんな見解が返ってきた。「復帰後も沖縄には米軍基地問題をはじめ、住民の命や生活に関わる課題がたくさんあった。軍中枢の壕であっても、保存公開に手が回らなかったのではないか」 ずっと土地を持ち続けてきた長嶺さん。保存公開を求める世論の高まりも、判断を後押ししているという。 「2年前に不動産業者が買いに来た時も断った。もう売ってしまいたいと思うこともあるが、ここまで待ったから。今度こそ、保存公開につなげてほしい」(社会部・山中由睦)◇ ◇ 県が保存公開を検討している旧日本軍の第32軍司令部壕。なぜ保存公開が必要なのか。沖縄戦当時から戦後、そして現在まで。壕の歴史と現状に向き合い、保存公開の意義と可能性を、記者が探し求めた。