『ニヒリズムとテクノロジー』ノーレン・ガーツ:著、南沢篤花:訳ニーチェが分析していたのはテクノロジーではなく、道徳や宗教とニヒリズムの関係だが、この分析はテクノロジーにも当てはまる。わたしたちは、テクノロジーを通じて倫理的な目標を追求している。テクノロジーはユーザーの信仰を育み、ユーザーの献身を引き出している。こうした構図から、テクノロジーにニーチェの哲学・思想が当てはまると確信した。本書はニーチェの思想に対する新たな解釈を探るものではない。人とテクノロジーの関係について、ニーチェの哲学をヒントに、その優れた批判的視点を養うことを目指したものだ。この本は学術面でも文化面でも、対象とするグループを特定していない。ニーチェ流に言うと、本書はあらゆる人のための、そして誰のためのものでもない1冊の書である。──まえがきより
ノーレン・ガーツ | NOLEN GERTZトゥエンテ大学助教授(応用哲学)。4TU.CentreforEthicsandTechnology(オランダ4大学の科学哲学分野の共同研究会)上級研究員。著書に『ThePhilosophyofWarandExile』(2014年)がある(未邦訳)。『アトランティック』、『ワシントン・ポスト』、『ABCAustralia』に研究記事掲載。ニヒリズムとテクノロジーの関係についての研究は、Twitter(@ethicistforhire)で発信している。
現代はテクノロジーと人との距離が極端なまでに縮まった時代だ。
スマフォを常に持ち歩く時代、それは誰もが最先端のテクノロジーを携帯しながら生活する時代である。日々アプリの更新を目にすることで、テクノロジーは常に新しくなるものだという信仰がそれとなく定着した時代。そこから「テクノロジーによって世の中の大抵の問題はきっと解決できるはず」という希望的観測を抱くまではあと一歩だ。
実際、様々なテクノロジーによって何かしらの問題が解決されていく様子は毎日報道されている。そのごく一部をスマフォで体験することで、テクノロジーの進歩によって今ある不都合もいずれは解決されるはず、などとのんびりと期待できてしまう時代が現代である。
そうして半ば自動化されたテクノロジーが人間を様々な責任から解放する。テクノロジーを利用することで、個人がこれから経験することも自分の都合の良い形に変えてしまえるかもしれない。そんな夢想もまことしやかに語られる。
とはいえ、そうしたテクノロジーによる問題解決は、しばしば「問題の抹消」を意味している。ひとたび解決された後は、問題となる不都合があったことすら人びとは忘れてしまう。その結果浮上するのが「自省のない世界」である。人に代わりテクノロジーを通じて倫理が実践される世界。道徳を諭す説教師もまたテクノロジーなのだ。
こうしてテクノロジーによる「問題の解決」は、「問題の排除」につながり、自省の機会を失うことで遠からず「生の否定」に至る。その様子はまるで、かつてニーチェが論じた19世紀後半のヨーロッパ社会そのものではないか。それが本書『ニヒリズムとテクノロジー』の出発点である。
ニーチェはかつて、自分の読者はまだ生まれていない、自分は未来に向けて書いているのだ、と述べたという。ニーチェの関心を引いたのは当時の社会に蔓延した「文化の病」であり、彼自身、自分のことを「文化の医者」とみなしていた。