太平洋戦争末期、徳島に墜落し死亡した米軍機パイロットを供養する石碑(高さ50センチ、幅30センチ、奥行き15センチ)が、紀伊水道に面した松茂町豊岡の堤防脇にひっそりとたたずんでいる。地元でもほとんど知られていない供養碑について、中央大でジャーナリズムを学ぶ県出身の学生が、建立者の遺族らの聞き取り調査に取り組んでいる。来年夏頃までにドキュメンタリー作品としてまとめる予定だ。
◇
「実は、誰にも話していないことがある。ずっと心残りだったんや」――。
元憲兵の男性が家族に打ち明けたのは、終戦から40年を経た1985年のことだった。徳島市の島孝雄さん(1988年に死去)。重い病気で入院した際、病室で付き添った次男の妻賀代子さん(66)に、数日間にわたって悔恨の思いを吐露し、石碑を建てて3年後に亡くなった。
記録によると45年7月24日、旧徳島海軍航空基地(松茂町)を攻撃した米軍の戦闘機が海岸近くに墜落した。対空砲火で撃ち落とされたとみられ、搭乗していた米軍士官は瀕死(ひんし)の重体で、やがて死亡。近くで火葬・埋葬された後、遺骨は45年12月末までに米軍が持ち帰った。
当時、現場に駆けつけた島さんは、集まった人々が士官の体を踏んだり蹴ったり、竹やりでつついたりしている様子を目の当たりにして、ショックを受けたという。
士官の身元が判明したのは碑の建立から33年後の2018年。イリノイ州出身のクリフォード・レスリー・バウソール海軍少尉(当時24歳)で、1945年秋に結婚する予定の婚約者がいたという。
「徳島市で生まれ育った私は全く知らなかった。もっと情報を掘り下げ、供養碑が建てられた経緯を多くの人に伝えたい」
中央大経済学部2年の藤川なな帆さん(19)は、ジャーナリズム研究のゼミで映像や原稿を作成することになり、地元でもあまり知られていないこの供養碑をテーマに選んだ。
藤川さんは、少尉の身元調査を行った「徳島白菊特攻隊を語り継ぐ会」の大森順治さん(73)(吉野川市)や戦史研究家から米側の記録などを入手し、丹念に読み込んだ。8月4日には島さんが石碑を建てた経緯について、賀代子さんに電話でインタビュー。「孝雄さんのお人柄がわかるエピソードを教えてください」と切り出した。
賀代子さんは、5人きょうだいの長男だった孝雄さんについて「両親を相次いで亡くし、弟3人と妹1人の面倒をみた。仕事熱心で家族思いな人で、とても優しかった」と振り返り、「死期が迫り、こみ上げる思いがあふれたのだろう。『命の大切さに敵も味方もない』と訴えていた。供養碑には後悔の念を収めたいという気持ちが込められていると思う」と語った。
約50分の電話インタビューを終えた藤川さんは、「戦時中の異常な状況下でも正しい気持ちを持っていた人がいたことがわかった」と話す一方、墜落現場で人々がとった行動については「苦しくて、目を背けたくなった。当時の人々の心情を想像しきれないところもある」と語った。今後はバウソール少尉の遺族を探し、接触できれば供養碑の存在を知らせたいという。
「戦争の犠牲者には若い人が多いと改めて実感した。戦争が起きれば、再び若者が巻き込まれてしまう。若い世代の一人として、敵味方に関係なく命の大切さを訴えている供養碑の史実を伝えたい」と語った。(望月弘行)
1985年建立の供養碑には「米空軍ポートシコルスキー機搭乗員P38戦没塚 昭和二十年八月十日没」と刻まれている。島孝雄さんの記憶に基づくものだが、その後の調査で米軍士官の所属と名前がわかり、戦闘機は海軍の「ボートシコルスキーF4U―1Dコルセア」と判明、墜落日も特定された。2019年には地元住民が、石碑の隣に木製の供養柱(高さ約2メートル)を建て、「米海軍バウソール少尉を悼む」と英語を交えて表記した。