1960年代後半、テレビ出演時のブビー(本人提供)
今から50年前、鐘紡ブラジルの延満三五郎社長(第四代ブラジル日本文化協会会長)が、日本の新聞特派員から「日系人はブラジル社会に溶け込んで大臣から犯罪者まであらゆる分野に進出していますが、女優やモデル業界などに居ないのは何故ですか?」と質問を受けた。 延満社長は「ブラジルに日系人が多いと言っても、全人口の1パーセントに過ぎません。アジア系の容貌では、いくら美人でもアイドルになるのは難しいでしょう」と答えた。 当時の日本は見事な戦後復興を成し遂げ、新幹線敷設や東京オリンピック開催、カメラ、トランジスターラジオ製造などで世界に知られる存在となり、ブラジル人も日本に注目し始めていた。 ブラジルにいる100万人の日系人のほとんどは中産階級で購買力が高い。ブラジルの大手レコード会社RGEは日系社会を優良市場と判断。日系の歌姫を育て上げようと計画した。 サンパウロ州マリリア市のラジオ・クラブで歌っていたアマチュア歌手、林オルガは、近くのポンペイア市出身で幼い頃から歌手を目指す田舎娘だった。 オルガの歌唱力とルックスの良さに目を付けたRGE社は、彼女をスカウトし、Bubby(ブビー)という芸名で、1967年にデビューさせた。RGE社はロベルト・カルロスの大人気テレビ音楽番組へBubbyを出演させたり、当時のトップバンド「オス・インクリーベイス」と共演をさせるなど大宣伝をしたが、レコードの売れ行きは芳しくなかった。 ちなみにはBubbyという名前の由来は、日本でも「ウスクダラ」というヒット曲で知られた米人歌手・女優アーサ・キットが名付け親であると伝えられている。
RGE時代のブビー
売り上げ不振の原因は、RGE社の制作スタッフに日系社会のポピュラーミュージック事情に精通している人がいなかったので、マーケティングを誤ったことが挙げられる。 当時のブラジル日系社会は老若男女を問わず、まだ演歌のレコードが好まれている時代だった。その中でBubbyは、ビートルズ以来世界中の若者の人気をさらったロック、ポップのグループサウンズの伴奏で、欧米の流行曲をポルトガル語で歌っていた。 RGE社は翌年、2枚目のレコードに期待をかけて、有名なポルチーニョ・オーケストラの編曲で録音したが、これもやはり選曲が適切ではなく、結果は期待外れに終わった。
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