こんにちは!「香港ガリ勉眼鏡っ娘ゲーマー」こと歐陽です。中国・香港・台湾を含む中華圏のゲームや映画、アニメなどの情報を発信し、社会事情を分析するコラム「中華娯楽週報」。前回は中華文化に普遍的な広がりを見せる道教を体験できるエンタメ作品のうち、とりわけ道教の色彩が濃厚なウェブコミック及びアニメ『一人之下』と、この神秘的宗教のダークな側面を遺憾なく見せつけるサイコホラー映画『ダブル・ビジョン』、そして道教が大きな存在となっている数々の魅力的な武侠小説を取り上げた。続いて今回は道教特集の最終回として、道教的要素が遍在するゲームや、日本でも高い人気を誇る鮮やかな中国の古典物語を紹介しよう。
現代の作品だけではなく、日本でも有名な中国の古典小説も道教文化の宝庫だ。日本で漫画化とアニメ化もされた『封神演義(ほうしんえんぎ)』は、完全に道教の物語である。殷周革命を舞台にしたスケールの大きいストーリーだが、史実の時代設定と一部の登場人物の名前を除いて、基本的に“何でも道教”なのだ。本作は仙人や道士、妖怪が人界と仙界を二分して大戦争を繰り広げる物語だが、それらの要素はすべて道教から来ている。
殷の紂王は、世界を創造した女神である女媧(じょか)の祭祀において、女媧の美貌に魅了され、「人界の誰よりも美しい女媧が私の女になったら良いのに」といった意味の詩を詠んだ。神に対する人間の無礼な行為に女媧は怒り、千年生きた狐狸の精に紂王を陥れるよう命令。狐狸精は、妲己(だっき)という美しい女の魂(精神的側面)を滅ぼして魄(肉体的側面)を手に入れ、紂王の妃として彼を籠絡。それ以降紂王は、妲己(狐狸精)に操られて暴政を行うようになっていった。そして紂王を倒そうとする殷周革命は始まったのである。
一方、仙界では、千五百年に一度の逃れられぬ劫として、人を殺さねばならないことになっており、人界の混乱に乗じて大量虐殺を企んでいた。後に人間と仙人、道士、妖精から365名を神に封(ほう)じる、つまり封神の儀式を行うことを仙界と人界が合意し、道士の太公望(たいこうぼう)が封神の執行者に選ばれた。人界の動乱や仙界内部の対立、人界と仙界の衝突が進行している中で、数多くの仙人や道士、人間の霊魂が封神された者の名が掲げられた「封神榜(ほうしんぼう)」へ飛んでいき、最終的に周が殷に代わり、太公望が周の丞相となって天下に平和が訪れた。
『封神演義』は道教の歴代キャラクター総出という感じの大規模なストーリーで、道教抜きでは到底成り立たない物語である。コラムの第32回で述べたように、道教そのものの成立は殷から千数百年も経った後漢の時代であり、さらに神仙などの系譜が整えられたのは「三国志」以降の魏晋南北朝時代である。『封神演義』が書かれたのは、それよりもさらに千年ほど後の明朝であった。つまり、元々殷の時代には存在せず、魏晋南北朝になるまで成熟していなかったが、明朝には国民的宗教となった道教を、遥か昔の殷周革命の時代に持っていって“応用”したのである。
日本の漫画・アニメ版の『封神演義』は小説を原作としており、気軽に『封神演義』に触れるチャンスを提供しているが、原作から重要な変更点もあるので、注意してほしい。その最たるものは、中国の道教や神仙思想に代わって「超古代文明」を物語の解釈のベースとしている点だ。さらに物語の舞台は、実在した殷周革命の中国ではなく、女媧自身が望む世界を作るために介入し、問題が発生したたびにリセットされて、何度も繰り返されている世界なので、古代中国と見せかけて実は現代より遥か未来だという設定となっている。おそらく道教の解釈のままでは日本人にとって受け入れにくいと考え、そのような設定にしただろう。とはいえ、道教の神仙や妖怪が数多く登場するので、“メタ設定”の違いを無視すれば、日本の漫画・アニメ版『封神演義』も「満天神仏」と呼ばれる道教の入門書にはなる。
日本での知名度は『封神演義』ほど高くないが、中国の怪異文学の最高峰とされる『聊斎志異(りょうさいしい)』は、道教の鬼神や妖怪、狐仙の話を集めた短編小説集で、道教文学において極めて重要な作品である。それぞれのストーリーが不可思議な怪談となっており、かなりゾッとするものも少なくない。代表的な怪異譚として「画皮(がひ)」を紹介しよう。主人公の書生は結婚しているにもかかわらず、ある絶世の美人に一目惚れして、彼女と書斎で同棲し始めたが、街で会った道士は彼の周囲に邪気が漂うことが気になった。ある日、書生が書斎に入ろうとすると中から鍵がかけられ、窓の隙間から覗くと、青い顔に鋸のような歯を剥き出した女の妖怪がベッドに人間の皮を広げ、その上に美人の姿を描いていた。絵が完成すると、皮を一振りして、服を着るように頭から被った。すると、妖怪はあの美人の姿になった。
すぐに逃げ出した書生は道士に助けを求めたが、力が及ばず、道士からもらった魔除けの払子を妖怪の女が破って書生に飛び掛かり、鋭い爪でその腹を裂き、心臓を掴み出して姿を消した。書生の死を知って激しく憤る道士は、女が老婆の姿になって書生の弟の家にいることを発見し、道教の竹剣で妖怪の皮を叩き落としたら、女が物凄い形相の悪霊と化した。道士は悪霊の首を斬り落としたら、その身体が煙となり、道士のひょうたんに封印された。
書生の妻は夫を蘇らせてと道士に哀願したが、道士は自分の術が浅いため、彼女にいつも街のゴミ山で寝ている奇妙な乞食に頼むことを勧めた。乞食は妻を杖で殴ったり、嘲笑ったりした後、汚い手の平いっぱいに痰を吐き出して、妻にそれを食えと命じた。一生懸命我慢してそれを飲み込んだら、不思議と痰が綿の塊のようになってゴロゴロと下がっていき、ちょうど胸の辺りで止まった。
夫を惨殺され、乞食に耐えられないほどの恥辱を受けた妻は家に帰ると号泣していたら、突然吐き気を覚えて、顔を背ける間もなく、痰を夫の死骸に向かって吐き出した。すると痰が心臓となって、夫の体の中に納まり、なんと夫が生き返った。書生は画皮――その女妖怪の名――のことをすっかり忘れていて、「夢を見ていたようだ」と言い、全快した。めでたしめでたし(?)。『聊斎志異』には、このような短編の怪異物語が大量にあり、かつてはホラー作品の聖典とされた。和訳もあるので、道教系の怪談を手軽に読みたいなら、『聊斎志異』は絶対に外せない名作である。
『水滸伝』も明らかに道教から大きな影響を受けている作品だ。そもそも『水滸伝』に登場する百八の魔星――三十六の天罡星(てんこうせい)と七十二の地煞星(ちさつせい)――は道教の概念である。最初に道士の張天師が疫病の息災のために祈祷を捧げるところから、最後に皇帝の徽宗(きそう)の魂が百八星の根城であった梁山泊(りょうざんぱく)を遊歴するエピソードまで、道教は縦糸のように物語全体を貫いている。『水滸伝』の冒頭には宋の歴史を語る陳摶(ちんたん)という実在した高名な道士が登場しており、著者が始終道教を念頭に置いていたことが窺える。
梁山泊に集まった豪傑の首領である宋江は、女神仙の九天玄女(きゅうてんげんにょ)など、幾度となく道教の仙人や道士に超自然的な力で助けられている。道士の中では、とりわけ戴宗と公孫勝の法術が非常に強力で、読者に鮮烈な印象を与えている。公孫勝の得意技である雷電の道術「五雷」は、道経に記載されている陰陽と五行(東・南・西・北・中の5つの方角)の教義を原理としている。また、多数の妖魔も作中に登場する。道教を理解しようとする視点から読むと、『水滸伝』をより深く楽しめるのだ。
日本で「三国志」という名で知られる『三国演義』にも道教の要素が頻出する。特に諸葛亮の神にも近い超人的な力を見せつけるために、彼が不可思議な道術を駆使するシーンが多数描かれている。諸葛孔明は、赤壁の戦いの前に東南の風を召喚したり、『易経』に基づいた八卦の陣を活用したり、寿命が尽きようとしたときに幕内に祭壇を築いて陽寿を延ばす祈祷の儀式を行ったりしている。小説の中の諸葛亮は、敵の意図をすべて事前に察知する軍事の天才だけではなく、鬼神や天候をも操り、天文をもって人の生死も知ることができる“道教的存在”なのだ。なお、『三国演義』の冒頭にある黄巾の乱も、以前紹介したように、張角率いる道教の宗派「太平道」による道教徒たちの反乱である。
『西遊記』は三蔵法師一行が仏教を経典を手に入れるために天竺を目指す物語だが、道教の要素は非常に多く入っている。そもそも孫悟空や猪八戒、沙悟浄は神仙や妖仙であり、仏教には元々存在しないキャラクターである。少年神の哪吒(なた)、牛の妖仙の牛魔王、道教の最高神の一人である玉皇大帝、太上老君(神格化された老子)の童子である金角大王や銀角大王など、道教由来のキャラクターの名前を数えるとキリがない。諸々の法術や戦闘シーンは言うまでもないだろう。一方、釈迦如来や観世音菩薩も普通に登場しており、中国における道教と仏教の融合――あるいは道教による仏教の吸収――を象徴している。
官能小説『金瓶梅(きんぺいばい)』の中には房中術――性交渉のスキルによって陰陽を交えて長生不死を目指す「男女和合の術」――が描かれている。中国の道教の物語は、古代から民間の伝奇や説話、演劇を通じて、代々伝承されてきたものであり、元・明・清の時代になると、規模のある小説になって、現代に至るまで多くの人々に愛読されている。ちなみに後にアニメ化された芥川龍之介の小説『杜子春(とししゅん)』も、唐の時代の伝奇文学作品『杜子春伝』をベースとした道教の物語である。
ホラーゲーム『返校 -Detention-』は戒厳令時代の台湾を舞台としているが、基本的には“道教ゲーム”と言っても良いほど、道教の魑魅魍魎や鬼神、廟などの宗教的要素に満ちあふれ、中華圏以外のプレイヤーにとっては異国情緒とあいまって恐怖感を煽ってくる。
日本風の舞台設定やキャラクター、日本人声優を採用する「中華製日系ゲーム」の『陰陽師』や『決戦!平安京』などは、和風と見せかけて道教の要素を大量に入れている。そもそも日本の陰陽道は中国の道教から輸入され、独自の発展を遂げつつ道教の陰陽五行思想や五大元素説を中核に据えたものなので、『陰陽師』などのゲームは道教文化で育った中華圏のプレイヤーにとっても親しみやすい。安倍晴明は日本人の名前を持っているが、中国の道士だとしても全く違和感のない人物だ。さらに、日本では陰陽師の呪文とされる「急急如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)」も中国から輸入したもので、道士などに多用され、中華圏の道教関係の映画やTVドラマではよく聞くフレーズである。
中華風に作られている『東方Project』にも道教の要素が随所に見られ、例えば陰陽玉や八卦炉は道教由来である。とりわけ『東方神霊廟 ~ Ten Desires.』のストーリーは非常に道教的なものであり、「霍青娥(青娥娘々)」という道教の神仙(ゲーム内では「邪仙」)やキョンシーのキャラクターが登場する。作中では、神道関連のキャラクター、物部布都(もののべのふと)や仏教を広宣する豊聡耳神子(とよさとみみのみこ)も密かに道教を信仰している。ちなみに神道キャラであるはずの物部布都は設定上、“古代日本の尸解仙”(しかいせん)となっているが、尸解仙はそもそも道教の仙人の一種で、第32回にも紹介した晋の道士・葛洪(かつこう)の『抱朴子』にその詳細が書かれている。葛洪は、現世の肉体のまま虚空に昇るのを天仙、名山に遊ぶのを地仙、いったん死んだ後、蟬が殻から脱け出すようにして仙人になるのが尸解仙であるとし、三者の中でも尸解仙が下位であると述べている。
ちなみに、「青娥娘々」などに出てくる中国語の「娘々(にゃんにゃん)」という言葉は、特定の神ではなく、道教の女神――目の健康を司る「眼光娘々」や子授けと安産を司る「送子娘々」など――への一般的な呼称である。ライトノベル・漫画・アニメ・ゲームの『とある魔術の禁書目録』には道教由来の魔神「娘々」が登場するが、中国では「娘々」だけだとどの女神を指すのか、全く分からないのだ。
『シェンムーII』には香港の道教寺院の文武廟や廟を管掌し、道教に精通する女性武道家の紅秀瑛(こう しゅうえい)、その門下生で道士の薫芳梅(くん ふぁんめい)が登場するだけでなく、太極拳や「功」「戒」「胆」といった武徳など、武術関係で道教の要素が盛り込まれている。なお、中華圏のカンフーものは映画や漫画、TVドラマを問わず、必ず道教的要素がふんだんに入っている。『シェンムーII』と同様に香港(九龍城寨)を舞台とする『クーロンズゲート』にも、風水や四神獣、陰陽の気、煉丹術などが登場し、全体的に道教風のゲームとなっている。
中華圏で圧倒的人気を誇る武侠RPGなどの武侠ゲームは、前回紹介した武侠小説と同様、すべて道教のキャラクターや必殺技、アイテム、他の各種概念が登場する。名作の『仙剣奇侠伝』や『剣網参 重製版』は代表的な武侠ゲームだ。
そして中国=道教の神々が参戦する台湾製の破天荒な格闘ゲーム『Fight of Gods』では、実際に関羽を神格化した関帝と航海・漁業の守護神の媽祖(まそ)を操作して戦える。道教は非常に懐の深く寛容な宗教なので、文句は言わないだろうが、神罰に触れるかどうかは各自の判断に任せよう。まあ、関帝はそもそも武の神だが、媽祖は人々に加護を加える慈悲深い女神で、本来なら戦って人を傷つけたりはしないだろう。
原作はゲームではないが、ゲーム版も出ているということで、『鋼の錬金術師』にも触れておきたい。錬金術は元々西洋のものだが、作中には東洋の技術で、医療方面に特化した錬金術という設定の煉丹術も登場している。このように、たとえ主役ではないとしても、道教の概念は中国文化を代表して、多くの外国製の作品にも入り込んでいるのだ。
日本ではアクセスが困難だが、中華圏で圧倒的人気を誇った道教系の映画やTVドラマも最後に紹介しておきたい。2015年の中国・香港合作映画『捉妖記(英題:Monster Hunt)』は、人と妖が元々同じ世界に共存するという想像上の古代中国を舞台としたコメディアクション映画だ。4億3770万円の興行収入を上げ、製作費を3倍ほど上回ったという大ヒットとなった。本作の中で、人はやがて妖を駆逐して世界を独占し、人界と妖界が分かれた。ある日、妖界で内乱が発生し、妖王が殺され、追われる身となった妖后は妊娠したまま人界の村へ逃れる。ところが、ヒロインの道士によって男性の村長以外の村人が全員、人に化けている妖であることが明かされる。危篤状態になった妖后は、腹の中の赤ん坊(小妖王)を村長に宿し、後に村長は小妖王を出産。『捉妖記』は、小妖王を守る臆病者の村長と凄腕の女道士の大冒険である。
道教の代表的な仙人であり、中華社会のいかなる階層の人にも受け入れられ、信仰も厚い8人の仙人「八仙」をテーマとする作品は数多く存在し、中でも1985年の香港のTVドラマ『八仙過海』は大ブームを引き起こした。それぞれ神通力を発揮する法器を持っている八仙は、同じように邪悪な妖怪を退治し、勧善懲悪を励行する。八仙はユーモラスな仙人でもあり、ある日に船に乗らず各自の方法で広大な東海を渡るというゲームを始めた。各々の神通力で全員海を渡れたが、東海を治める東海龍王は彼らの行為を不敬とみなし、八仙のうち2人を捕まえた。
他の仙人たちは仲間を救うべく、東海龍王の王宮へ赴いて相手の軍勢を圧倒したところ、東海龍王は南海、西海、北海の龍王に助けを求め、大規模な戦いとなった。『八仙過海』はその一部始終を諧謔心たっぷりで伝えたドラマであり、商業的成功から香港だけでなく中華圏の他地域でも放送された。なお、本作は香港のTVドラマで初めて中国大陸をロケ地にした作品で、この意味においても歴史的なドラマである。
魔除けの神、鍾馗(しょうき)も人気のある道教の神だ。キョンシー特集で紹介した道士役のアイコニックな俳優、林正英(ラム・チェンイン)も出演している『鍾馗嫁妹(英題:The Chinese Ghostbuster)』という1994年のTVドラマは、原題通り鍾馗が妹を嫁に出す話である。サイモン・リーという人間の男が用事で陰界に行った際、誤って鍾馗の妹の乳房を触り、鍾馗の妹は貞潔を守るため、リーに嫁ぐことを決めた。しかし、リーが男娼であることが分かり、鍾馗は二人の結婚を阻止しようとするも、妹の決心が固く、すぐにリーと関係を持ってしまった。ところが、リーも鍾馗の妹が人間ではなく陰界の存在だと気づき、道士(林正英)を雇って鍾馗兄妹を“退治”しようとする。このようにして人と神の熾烈なる戦いは幕を開けた。
北宋時代に実在し、庶民に広く愛された公正無私の名裁判官である包拯(ほうじょう)とその周りにいた侠客たちの活躍を描く、いわゆる「包公故事(包拯をまつわる故事・伝説。包公は包拯の尊称)」は、昔からポピュラーなジャンルであり、道教の色彩が濃厚である。現代の包公作品で最も成功しているのは、1993年2月から1994年1月まで放送された台湾・中華テレビの人気TVドラマ『包青天』である(包拯は、まるで「青天」のように清廉で公正な裁判官だったので、民衆に「包青天」と呼ばれた)。オムニバス形式で、一つひとつの事件をフィーチャーしていくが、鬼神や仙人、法術を操る武術の達人が存在し、事件の行方を大きく左右する。
例えば、すでに犯人が分かっているのに、物証が乏しく立証できずに悩んでいたら、法廷に立たされた犯人の前に死者の怨魂(怨恨を抱いた魂)が泣きながら現れ、犯人を自白へと追い込む有名な物語がある。また、人界に降りた鬼神が己の悪事を隠すため、包公を自分の屋敷に軟禁したが、包公の部下である武術家の神秘的法術により包公が解放されたので、鬼神が包公に化けて「2人の包公」という状況を作り出した、というストーリーも有名だ。皇帝もどちらが真でどちらが偽か分からなかったが、最終的には亀の仙人が恩返しのために本物の包公を危機から救った。このような道教物語が大量にある『包青天』は台湾のみならず、香港など中華圏広域で放送され、圧倒的人気を獲得した。なお、一般的に武侠小説の祖とされる清の『三侠五義』も、「包公故事」が原形となっている。
最後に、『竇娥冤(とうがえん)』という元曲(元の時代に隆盛した雑劇と散曲を指す文芸ジャンル)最大の悲劇とされ、後世の様々な道教系の作品に着想を与えた名作にも触れておきたい。主人公の竇娥(とうが)は、夫に先立たれ未亡人となり、姑と暮らしていた。竇娥はならず者に言い寄られ、それを拒むとならず者は姑を殺害した上、その罪を竇娥にかぶせた。竇娥は汚職官吏により一方的に死刑を宣告され、処刑前に最期の言葉を残した。その内容は、もし冤罪であれば、処刑された彼女の血は旗に飛び移り、真夏に雪が降り、現在の江蘇省にある楚州に3年間干ばつが続くというものであった。そして、処刑後にこれらの言葉は現実となった。
その後、この地に竇娥の父が科挙官僚として赴任すると、怨魂として竇娥は父に冤罪を明らかにするよう懇願する。その結果、裁判がやり直されて真犯人が処刑された。怨魂の力を見せたこの元曲の影響を受けた後世の多くの作品には、さらに様々な道教の神秘的要素が加えられ、「竇娥もの」自体が濃厚な道教色を持つ一大ジャンルを形成した。
作品の紹介は以上となる。前回と併せて、ほんの一握りの作品を厳選したが、道教が中華社会の至るところに浸透し、エンタメシーンにも遍在することを分かってもらえただろうか? 中華圏のホラー系コンテンツや、面白そうな言い伝えはすべて道教関連のものであると言っても過言ではない。そして、中華圏発の作品だけではなく、中国や台湾、香港を舞台としたり、“中華風”を打ち出したりする外国製の作品の多くにも、道教の要素が取り入れられているのだ。
道教は日本人にとってマイナーなものかもしれないが、中華圏では極めて“メジャー”な存在であり、多くの日本人が想像するよりも遥かに普遍的な広がりを見せて、圧倒的な支配力を持っている。香港や台湾の街を10分も歩くと、道教の要素に出会わない方がむしろ珍しいと言える。中華文化を形作る道教を伝えるため、4回にわたって道教を紹介し、毎回たくさんの内容をがっちり書いて、かなり大きな道教特集を組んだ。この特集を通して、道教への理解を深めてもらえたら嬉しく思う。道教は、通常の“宗教”の範疇を遥かに越えて、“社会”そのものなのだ。
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